野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

3月11日(月)

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今日夕方の西空 パンスターズ彗星は発見できず。

 

 2年前の今日、午後2時45分頃。しだいに大きくなる揺れに “たろ” と私は、前もって決めていた大地震をやり過ごす特別な場所(倒れかかってくるものも落ちてくるものもない)に座り込んで、初めて体験する強震に耐えていた。

 モリアキ翁92歳(当時)は郵便局へ行くと言って出かけていたので、揺れが収まってすぐ、安否確認のために自転車を走らせた。

 多くの人が屋外に出て、あちらこちらに集まって余震に備えていた。

 郵便局に行ってもモリアキ翁はおらず、しばらく探しまわって、結局郵便局で発見。

 モリアキ翁は「大きな地震だったね」と平然と言ってのけた。

 彼は大正関東大地震と平成東北太平洋沖地震の2つを体験したことになる。

 

 しかし、地震学者の石橋克彦先生によると、1993年の北海道南西沖地震、1995年の兵庫県南部地震を皮切りに日本は地震活動期に入ったという(「大地動乱の時代」による)。

 地震活動には静穏期と活動期があり、東京は静穏期に、かつてないほどの発展を見た。それは逆に言えば、地震に対して脆弱な都市として出来上がってしまったということだと石橋先生は指摘する。地震は止められないから、地震と共存する知恵を出しあって暮らしていくしかないと提言なさっている。

 そのとおりだと思う。ひとたび大地震が起これば、私たちにできることは耐えることだけだ。まず生き延びること。現代の地震での死因は建物の倒壊や家具の転倒による圧死が多いとされており、その対策は決して不可能ではない。問題はやる気があるかどうかだけだ。

 原発震災という言葉も石橋先生によるものだ。彼は2007年に参議院で原発震災が起こる可能性について証言しており、決して少なくない数の国会議員はそれを知っていたはずだ。しかし、想像力が足りなかった。それは、私たちも同じことだろう。

 だから、次の大地震の時には、決して「まさか」などと言わずに済むようにしたいものだ(しかし、きっと思いもしなかった初めてのことばかりが起こるのだろう)。

 

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やっと雛人形が箱に戻って、玄関ギャラリーには椅子のミニチュアが飾られた。