野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

12月7日(土)

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 今朝5時。起きてきたカミさんに「そろそろ寝たら?」と言われて我に返って慌てて布団に入った。すでにウトウトしかけていて、まるで起きている意味がなかった。

 その成果を見たのは午後遅く。

 モリアキ翁の2回の食事の世話と、2コマのレッスン、夕食の買い物を終えてから。

 昨夜は夢中になって書いていたに違いない楽譜を冷静になった眼で眺める。 書きなおさなければならないところがいくつも目につくけれど、そんなことは二の次。肝心なのは夢中にさせたアイディアを抜き出すこと。

 いつも述べているように、作曲家はどんな曲を書こうと構わない。その理由は作曲者の死後、演奏家や聴衆の「その時の一番」にならなければ音として鳴り響くことがないからだ。

 音楽を選んで聴こうとする時、誰もがその時に一番聴きたい曲を選ぶことだろう。だから作曲家は「誰かの一番」を勝ち取らなければ、この世に存在しないのと同じことになる。

 ところで、今夜の「クラシックの迷宮」は、生誕百年となるティホン・フレンニコフ。音楽史のヒール(悪役)なので表舞台に出てくるときは名前だけのことが多い。

 今夜は、初めて聴く曲ばかり。番組案内役の片山杜秀さんは、フレンニコフが来日した時に、彼が弾くピアノ・コンサートを聴いているということだった。良いピアニストであったと語っておられた。

 作風ショスタコーヴィチプロコフィエフを彷彿とさせるところがあるものの、どこか凡庸な印象の、つまり既聴感のある音楽が多かったという印象。

 音楽という抽象的な表現方法では、彼が悪役であるのかどうかなど読み取ることはできない。

 現実とは裏腹に、冷戦時代にはショスタコーヴィチソビエト社会主義の先鋒として批判を浴びていた。彼が体制側と闘っていたことは西側諸国にとって後になってから知られるようになったことだ。

 誰が悪役で誰が正義であろうと、全ての問題はその音楽が優れて美しいかどうかだけに集約される。もちろん、ここでいう “美しい” とは音楽美のことである。

 

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