野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

10月26日(土)

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 台風201327(フランシスコ)は予報された進路よりも南側を進んだので、関東地方への影響は、思ったほど大きくはなかった。

 それよりも、昨夜のアウターライズ地震の情報番組をダラダラと観ていて、寝不足に輪を重ねることになってしまったことのほうが影響が大きかった。

 

 今日はEテレの「新世代が解くニッポンのジレンマ いま芸術は…? クリエイター原論2013」が非常に興味深かった。

 出演者は(敬称略で)小説家の平野啓一郎、映像作家で作曲家でパフォーマーというマルチな才能を持つ高木正勝、アーティストとしか言いようのないスプツニ子、そして社会学者の古市憲寿(ふるいち のりとし)とNHKの青井実アナウンサー。

 書き始めたら止まらなくなりそうなほど、さまざまな問題を浮き彫りにした出演者の発言があったのだけれど、ひとつ選ぶとしたら高木正勝氏の芸術論。

「芸術は自分を表現しなければならないと思いがち。(以下グレゴリオ聖歌を例とした説明は省略)こだま(やまびこ)は、やってみるとなかなかうまくいかない。いろいろ試してやっと上手く返ってくる。芸術も、自分がやりたいことをやれば良いのではなくて、こだまのように従わなければならないこともあるのではないか」

 そうだ。まさにそのとおり。野球で言えば、バッターがヒットよりも空振りのほうがいい、とは思わないだろう。空振りの美学というものがあるとすれば、どんな時でも0.5mmだけの間隙でボールを外すというような高い技術が必要になることだろう(それでもヒットやホームランの魅力には勝てない)。

 抽象的かつ刹那的な音楽では、作曲家は、まずボールを打つことからスタートしなければならない。聴衆たちは空振りを瞬時に判断し耳を閉ざしてしまうからだ。

 12の音をランダムに並べて、それらを反行形、逆行形、反逆行形にしたりしただけの曲を堂々と発表していた時代が本当にあったのだ(本当に12音で音楽的に作曲していた作曲家もおり、現在も作品が生きている)。ならば、ハ長調の構成音をランダムに並べてトニック、サブドミナント、ドミナントのコードを割り振れば「これ、ハ長調なんだぜ」と威張れることになる。というようなことを高木正勝氏は言葉にしてみせてくれた。

 前衛音楽の洗礼を時代の波として受けざるを得なかった世代の作曲家は、聴衆からも周囲の作曲家からも「訳が分からない」ほど程度が高いと期待されたりしてやりにくかったとは思うが、調性が戻ってきた21世紀のクラシック音楽が古典派に逆戻りしてはいない。

 おっと、また朝になってしまいそうだ。今夜は営業終了。

 

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台風が去った夕暮れの西空

 

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