野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

2月25日(月)

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 昨深夜、ネット接続が切れてしまったので26日午後に更新。

 昨日のことを思い出そうとしても、生活リズム計を身につけ忘れたことと栃木県北部を震源とする連続地震、そして日が暮れてからモリアキ翁の縦書便箋を買いに行ったことくらいしか浮かんでこない。

 要するに毎日のルーティンワークをこなしていたということだろう。

 ちょうどいま、不要書類・楽譜などのシュレッド作業の休憩中なのだけれど、午後2時からのFM帯(おび)番組が流れているので、それについて思い出したことがある。

 中学生だった頃、モリアキ翁から薦められた歯科医院が家からバスと電車を乗り継いでⅠ時間もかかるところにあった。

 まあ、とにかくそこに通っていたのだが、学校が終わってすぐに家を出ると4時前頃に歯科医院に到着。待合室に熱帯魚の水槽があって、いつもFMでクラシック音楽が流れていた。番組はいつも終わる頃で、10分か15分経つと、その日に放送した曲目をもう一度読み上げるのを聴いていた。それは今のクラシックカフェにあたる番組で、ホームコンサート、あるいはFMホームコンサートというような番組名だった。

 その数年後、土肥先生のレッスンに通うことになったのだが、偶然にも降りたバス停がその歯科医院にかよった時と同じだった。こういう偶然はなんと呼ぶのだろうか。まあ不思議な体験だった。しかし、これは本筋とは関係のない話。

 高校生になってから音楽を勉強することになり、画家の名前と作品しか知らない私は、音楽史の全体像をつかむためにクラシック関係のテレビ番組やFMを聴くことにした。

 N響アワーのような番組は夜だから問題なかったが、最も充実した内容であると思われた午後2時からのFM帯び番組は録音しないと聴けなかった。それで、語学用のカセットテープレコーダーに、キッチン用のON-OFFタイマーを組み合わせて毎日録音した。オートリバース機能などなかったので、2時間テープでⅠ時間だけ録音していたのだと思う。

 FM雑誌には曲目1曲ごとの詳細な演奏時間が記されていたので、それを見ながら狙った曲に照準を定めていた。

 学校から帰ると、それをくり返し聴いた。なにしろテープは翌日、または翌々日に使いまわして上書きしてしまうので真剣に聴いた。

 FM番組表に、どうしても保存したい曲がある時には前もってテープを買ってきて、それに録音した。あるいは、使い回しのテープの曲が気に入った時には、新しいテープを次の日の録音に使った。

 この時の体験は、今の私の宝物になっている。なにしろ聴きたいか聴きたくないかなどというわがままは一切関係なく、曲が次から次へと流れてくるのだ。オーケストラの定期会員になったようなもので、プログラムは選べない。

 ウォークマンが売り出される前なので、聴きたい曲だけ聴くということが少なかった。

 また、午後11時からの「夜のコンサート(?)」のようなタイトルの35分とか40分というような長さのクラシック番組も欠かさずに聴いていた。この番組はあまり有名ではない曲を取り上げる点が特徴だった。ヴォーン=ウィリアムズもフランク・マルタンも、この番組で知ったのだと思う。

 高校生の途中で、きちんとしたカセットデッキを手に入れたので、録音環境も格段に良くなった。

 そのお陰で、高校を卒業するころまでには大作曲家といわれるような人たちの主要作品はだいたい把握していたと思う。

 高校時代はプログレッシブ・ロックと現代音楽が極めて近い関係にあった時代で、それらも守備範囲に収めなければならなかったので、とにかく聴きまくった。

 そのうち、未聴曲に焦点を当てるようになり、なかなか放送されないベートーヴェンの交響曲第2番であるとか、ショスタコーヴィチの第1番、5番、7番、9番、10番以外というようにピンポイントで番組表を精査していった。

 それと並行して、特定の曲を聴きこむということもやっていた。ヴォーン=ウィリアムズの「交響曲 第3番」は、毎日3回ずつ(朝、夜、寝る前にもう一度)習慣として聴いた。毎回、オーケストラ奏者の誰かになって自分のパートだけを聴く、というようなことを繰り返していた。これを7年近く続けたお陰で、オーケストレーションの核心のようなものを自然に掴めた気がしている。ほかにも、バルトークの「弦打チェレスタ」や「オケコン」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、ショスタコーヴィチの「第5番」、プロコフィエフの「第2ピアノ協奏曲」、マルタンの「小協奏交響曲」などは暗譜するほど聴きこんだ。どれも精緻なスコアばかりで、どれも非常に勉強になった。

 そうだ。「現代の音楽」は今とは放送時間が異なっていたが、これも欠かさず聴いていた。当時も今も、聴衆を拒むようなスタンスにおいて変わりばえしないが(つまりジャンルとして確立してしまったという感がある)、ジョン・ケージモートン・フェルドマン、そして何よりスティーブ・ライヒとの出会いは貴重だった。

 大学に進んで知ったことは、音楽科の学生たちが、あまり曲を聴いておらず、むしろ大学オケなどにいる学生のほうがたくさんの曲を知っているということだった。

 曲をたくさん知っていれば良いというものではないので、どちらでも構わないのだが、深く聴きこんだことがないというのだけは致命的かも知れない。

 さて、作業に戻る。今日はテストプリントした楽譜を、すでに1000枚くらいシュレッドした。うっかり手書きのスケッチも何枚か裁断してしまったのが悔やまれるが、これでもう失敗しないことだろう。