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モリアキ翁の退院も決まって、その準備も概ね終えたので、気持ちがとても楽になった。
今日は久しぶりに音楽系の題材。
午前中はナナちゃん(高3)のレッスンでドビュッシーを2曲扱った。
ここではナナちゃんの話ではなく、ドビュッシーが本題。
「作曲工房 音楽コラム」のアーカイヴが今でも読めるとしたら、そこに音楽史を形成したと私が考える10人の作曲家について書いたものがある。
時代順に書くと、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、モンテヴェルディ、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、シェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキー。
音楽史からこの10人を選んだことについて異論をお持ちの方もいらっしゃることと思うけれど、そういう方は、批判ではなく、ぜひ自説を公開して世に問うていただきたい。
バッハは他の作曲家と大きく異なる作曲家なので、ここでは話を分かりやすくするためにバッハを除いた9人で話を進める(多少、バッハに触れざるを得ないところもある)。
詳しく述べると連載になってしまうので、誤解を恐れず全体をなるべく簡潔に記す。
ジョスカン・デ・プレは、音階(旋法)の各音の役割と和声が、現代の我々にも容易に共感できる作曲家の嚆矢(こうし)となった一人である。彼以前にも、同じような意味で重要な、オケヘムのような作曲家も存在するが、ジョスカン・デ・プレの作品は日常的に聴きたくなる作曲家なので彼を選んだ。ギョーム・ド・マショーまで遡ると、メロディーの行き着く先が予測できない、無重力のような落ち着かなさがあるので言わんとしていることはご理解いただけることと思う。音楽史にはジョスカン以前と以後がある。
パレストリーナは、音楽史上のひとつのエポックである。パレストリーナ様式とまで言われるような作曲家なので、何も書く必要はないだろう。もし、不幸にしてパレストリーナと縁がなかった人は「教皇マルチェルスのミサ曲」を「試し聴き」ではなく覚悟を決めて聴きこんでいただきたい。もちろん、彼以前と以後では音楽の枠組みが大きく変化する。
バッハを割愛するので、次はベートーヴェン。
同時代の天才と言えばモーツァルトだが、後世への影響はモーツァルトよりもベートーヴェンのほうが大きい。そもそも、ロマン派の作曲家は、その多くがベートーヴェンの系譜と言っても過言ではないように私には思える。ショパンは月光ソナタの第3楽章の一部を、そっくりそのままコピーしてしまったことに気づいて「幻想即興曲の楽譜を破棄してほしい」と友人のフォンタナに遺言した(フォンタナがショパンに従わなかったことは幸いだった)。ベルリオーズの「幻想交響曲」に、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を聴きとってしまうのは私だけだろうか。チャイコフスキーは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」の序奏部を、ほぼそのまま使って「悲愴交響曲」を開始している。
書きすぎた。そもそもベートーヴェン以前・以後について書く必要などなかった。書くならパレストリーナだった。
ショパンはピアニスティックという問題について深く追究した最初の作曲家と言って良い。それについては、わずかに残された「ピアノ奏法」の遺稿にも見ることができる。とくに彼は黒鍵を含む鍵盤の構造と機能についての驚きを「これを作った人は天才なのであって、ただただ舌を巻くほかはない」と表現している(「弟子から見たショパン」音楽之友社 260ページ)。
もうひとつ、彼はペリオーデについて深く考えた最初の作曲家でもある。ペリオーデは「楽節構造」などと訳され、指揮者は一般的にこれに敏感である。言葉で説明することもできるけれど、最終的にはクオリアなので言葉による理解は完全ではないので、割愛する。
そして、今日のテーマであるドビュッシー。
ドビュッシーは、それ以前(ただし彼の生誕200〜250年前くらいまで)の音楽との間に断絶がある。にも関わらず、彼の作品はバッハやベートーヴェンと同じプログラムに含まれていてもなんら違和感がない。それは、後から以前の音楽とドビュッシーの間を埋める作曲家が現れたからかも知れない。ベートーヴェンの場合は、多くの作曲家が彼の後を追おうとしたように思える。しかし、誰もドビュッシーの真似ができなかった。真似ようものならたちまちドビュッシーになってしまうからかも知れない。
ドビュッシーを知って、音楽の可能性の広さに気づいた作曲家たちは、まさに「新しい音楽」の創造に乗り出すこととなった。
その代表格が無調音楽を厳格に規定しようとしたシェーンベルクらによる新ウィーン楽派(ベルクとウェーベルンほか)。
シェーンベルクらは調性問題では新境地を切り開こうとしたけれど、12音技法とバッハの対位法の親和性に気づいた彼ら、特にウェーベルンの作曲法が作曲家たちにバッハの特異性を知らしめることとなった。実際、バッハ研究の進展は20世紀になってからのことなのだった。
バッハへの強い関心はバルトークにとっても同様だった。それは「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」の第1楽章などに結実するが、バルトークの真の関心は他にあった。
同世代の作曲家たちの音楽を「創作料理」にたとえるならば、バルトークは、自らの音楽を、一人の料理人がどれだけ格闘しても敵わぬ「伝統料理」であろうとした。分かりやすく言うと、一人の料理人が「にぎり寿司」を考案したり、「スパゲッティ」を考案したり、「チーズ」や「蒸留酒」の製法、あるいは「生(き)のコーヒー豆」から美味しい飲み方を編み出すことは限りなく難しいことだろう。
バルトークは、伝統音楽の「長い時間をかけて洗練されていく」という本質に着目して、自らの出自を表すと考えられるマジャールの伝統音楽や近くの地域の音楽を研究することによって新たな普遍性を目指した。バルトークは伝承曲を多数集めたことで知られるが、コレクションすることが最終目的なのではなかったと思う。フィールドワークで録音している時点で、すでにその曲から学んでいたのだと私は考えている。
またバルトークは難解であると考えられがちだけれど、根底には脈々と続いてきたクラシック音楽の伝統もある。彼の「弦楽四重奏曲 第1番」の第1楽章冒頭と、ベートーヴェンの「弦楽四重奏曲 第14番 嬰ハ短調」の第1楽章冒頭を聴き比べてみれば、彼もベートーヴェンの末裔であることが分かる。
ストラヴィンスキーは、ロシア音楽に根ざしながらも、彼の発明としか思えないインスピレーションにあふれた作曲家で、本当に新しい音楽世界を切り開いた。
いま聴くと、シェーンベルクの音楽は不協和音こそあれ、バッハまで遡るような、数百年の伝統を感じさせる。ストラヴィンスキーも伝統的な手法は用いるものの、いま聴いても新しい。ペトルーシュカにおける複調作法は誰にでも真似ができるが、春の祭典の半音(長7度)ずれたまま同時に鳴る2つの属七などは、不快なはずなのに快感で、この真似は難しいことだろう。
長く書きすぎた。ドビュッシーの本論は、いずれまた興が乗ったら。
では、お休みなさい。