野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

7月10日(火)

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 長野県北部で震度5弱の地震。これまでに12回の有感余震が続いていることから、“本震” と呼べる地震だったことになる。

 富士山も気になるところ。次の災害地震がどこになるかで避難する方向が変わる。前もってシミュレートしておかないと、その場で慌てることになりかねない。

 

 前から書いていることだけれど、音大を卒業していてもベートーヴェンの交響曲9曲を区別できない、あるいは聴いたことがないという人が多い。今日、その原因のひとつに思い当たった。それは大学での音楽史の授業にあるのではないだろうか。

 少なからぬ音楽史の書物が、バッハが没してウィーン古典派御三家が活躍したような流れを記述している。あるいは、そのように思わせるような構成(バッハのすぐあとにハイドンモーツァルトベートーヴェンがやってくる)になっていたりする。

 バッハは音楽史から外れた少し特別な存在で、音楽史の流れの中に位置させることが難しい作曲家だ。

 クリストフォリによってピアノが発明されたのは18世紀初頭で、古典派の萌芽は、ここにあると言ってよいだろう。ピアノの最大の特徴はアクションであり、チェンバロに比べて装飾音の演奏は少し苦手だったかも知れない。なぜなら、ハンマーが打鍵位置まで戻らなければ次の音が出せないからだ。そのかわり、スケールのようなものは得意だったことだろう。これが作曲に影響しないわけがない。

 バロック時代の聴衆は音楽的な素養のある貴族や上流階級の人々だった。それに対して経済的にも力を持ちつつあった、中量階級がコンサートにやってくるようになると、シンプルで分かりやすい音楽が好まれるようになった。複雑なモダンジャズの衰退とシンプルなロックの台頭にも似ている。

 とにかく、バッハが誰にも書けないような複雑な対位法作品を書いている時、世の中は前古典派がすでに隆盛を極めていた。シュターミッツ親子やバッハの息子たち、あるいは半分素人の作曲家たちが著作権法などない時代に、録音の代わりに他人の作品をパクっては演奏していた。特にウィーンには多くの優れた音楽家たちが集っていた。イタリアにいたはずのヴィヴァルディまでがウィーンに居を構えていたくらいだ。

 モーツァルトは、ヨハン・クリスチャン・バッハや、マンハイム楽派の音楽のスタイルを真似て曲を書いていた。著作権法などない時代だから、そんなことは日常茶飯事で当たり前のことだった、

 朝の定期便にリンクしたように、モーツァルトJ.C.バッハの交響曲からインスピレーションを得て交響曲第29番を書いた。べートーヴェンは、別のところに着眼してピアノ協奏曲第1番第1楽章を書いた。モーツァルトベートーヴェンを合わせると、J.C.バッハの交響曲が浮かび上がってくる。

 前古典派までは、取り立てて作曲者の個性を全面にだそうというような風潮はごく一部にしかなく、だれもが綺麗な曲を書こうとしていた。

 1795年にはベートーヴェン自身のピアノで斬新なピアノ協奏曲第1番が初演された。たくさんの音楽愛好家がベートーヴェンに注目した。それはかつて聴いたことがないような見事なコンチェルトだった。

 1799年にはベートーヴェンの七重奏曲が発表された。それは、すぐにベートーヴェンだと分かるほど個性的だった。録音がなかった当時、生演奏は非常に貴重で、自信たっぷりな挑みかかるような表情の青年は注目の的となった。

 交響曲第1番(1800)は、七重奏曲(1799)を凌駕する、それ以前の交響曲とは一線を画したものだった。人々は第2番を待ちわびた。1803年にはピアノ協奏曲第3番と第9を予感させる交響曲第2番が初演された。この2曲でベートーヴェンの人気は不動のものとなったに違いない。

 いやがうえにも交響曲第3番への期待は膨らんだ。ところが第3番が初演された時、多くの人は戸惑った。ベートーヴェンモーツァルトの影影響を受けながらも、それを上回る難解で巨大な作品を書き上げたのだった。

 私たちは、当時のウィーンの聴衆になって、その衝撃を体験することができる。

 第4番は第3番への批判をかわそうとしたのか、少し先祖がえりしたようなところがあるが、快活で美しい作品。

 そして初演をむかえた第5番「田園」(初演時はそうだった)、第6番ハ短調で、人々は第3番「英雄交響曲」以上の衝撃を受けることになる。

 もうくたびれてきたからそろそろおしまいにするが、きちんと第1番と第2番を聴きこむと、きっとファンになる、1番・2番はハマる曲だ。

 そうなった耳で第3番を聴くと、当時のウィーン市民の困惑だって体験できる。このようにして聴いていくと、ベートーヴェンの9曲の交響曲は、私たちの血と肉となって、その後の音楽史の理解に大きく役立つことになる。ランダムに9曲をパラパラ聴いていても到達できない世界がある。

 教養としてではなく、虜になって聞く音楽は格別だ。たっだ9曲だけれど、一つ一つに物語がある。

レッスンでなら、もっとずっと詳しく、しかも本質的なところを指摘できる。ベートーヴェンの交響曲をすべて知る前と後とでは音楽観が大きく変わることだろう。

 

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