野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

6月8日(金)

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 モリアキ翁93歳が、細切れ睡眠になってきたので仕方がないのだが、控えの間で休んでいる私も連続して睡眠をとることが難しくなった。今日は、ほぼ徹夜状態だった。

 モリアキ翁の朝直は用意したものの、私は吐き気がして朝食が食べられず、お茶を飲んでおしまい。

 にもかかわらず、インスピレーションがやってきて「ガニメデの勝利の踊り」のブラッシュアップに没頭。午前中にかなり形になった。プリモは1巻の約束事である「白鍵のみ」を守りつつ転調して復調、コーダへ進む。まだコーダを書きなおす必要があるけれど、焦りは禁物。自然に音が聴こえてくるのを待つ。

 この待つという感覚が、なかなか難しい。

 この難しさは、作曲のレッスンにおける教会旋法と似ている。

 教会旋法は、楽譜で見るかぎり全てハ長調(調号だけならイ短調も含む)だ。そこが長調・短調との違いだが、違いはそれだけではない。簡単に行ってしまえば「センス」が違う。

 古典派・ロマン派の時代には圧倒的に長調・短調が幅を利かせていたが、それは作曲家のみならず、人々の発想がその世界に限定されてしまったからだ。バロック時代には、まだ教会旋法のセンスが生きていた。ツェルニーが校訂したバッハのインヴェンションを弾けば、それがすぐに分かることだろう。

 今でもディアトニック(長・短調)のセンスは頑固に生き続けており、楽典やネット上の教会旋法の説明がディアトニックのセンスで行なわれいる。

 発想というのは、それを持たない人には全く理解できないもので、説明そのものが無意味になったりする。日本と、たとえば中国のペンタトニックは楽譜上では全く同じものがあるけれど、日本人や中国人は別々の音楽を歌ってきた。これが発想の差。

 イオニア旋法とハ長調は同じものだという説明が、至るところでまかり通っているが(ウェブ検索すれば、そういう事例には枚挙に暇がないはず)、ヴォーン=ウィリアムズは、その著書で「別物だ」と書いている。もちろんヴォーン=ウィリアムズが正しい。

 多くの人が、ディアトニックから外れた様々な旋法を「特別なもの」と感じることだろう。しかし、地球規模で考えればディアトニックこそが特殊なものであることが分かるはずだ。

 日本のわらべ歌を例にとると、少ないものでは2音だけで歌われる。つまり、どのような旋法であるのか特定することも困難なわけだが、これが旋法世界では当たり前のこと。調を確定しようという強い動機が働くのはディアトニック世界での話だ。

 これが旋法のセンス。もし、旋法のセンスを獲得したければ、世界中の伝統音楽の中から数曲を選んで身体に染み込むまで歌い続けるしかないだろう。ディアトニック・センスで理解しようということ自体に無理がある。

 ここで、元に戻って決定稿の話。これで決定稿だという判断は天啓のようなものであって、「う〜ん、もうこれでいい!」などというようないい加減なものではない。本当に聴こえてくるのだ。絵で言えば、人や動物がきちんと立っているのと同じだ。だからこそ、ピカソはラスコー洞窟の壁画を見て驚嘆した。

 音楽も同じ。きちんと完成するものだ。

 今日こそ眠らないと突然死しそうなので、もう寝る。絶対に眠ってやる。

 では、お休みなさい。

 

>今日のアップロード

1β_ガニメデの勝利の踊り_第2稿

 

>今日の気持玉

・1β_ガニメデの勝利の踊り <驚いた>1 <面白い>1

・3β-23_星の子守唄 <かわいい>1

・4β_ひとりの踊り <ナイス>1