野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

5月29日(火)

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 きょうは午後から大気の状態が不安定で、作曲工房周辺でも雷鳴が鳴り響いた。今も雨がふっている。

 

 中学生の時、音楽の授業の副教材として小ぶりで分厚い歌集があった。その中にあった「グリーン・スリーヴズ」がEドリアンモードではなく、e  mollになっていた。だから本来CisであるべきメロディーがCになっていた。

 その楽譜の編曲者にとってCisは忌避すべき音だったのだろう。

 ツェルニーが校訂したバッハインヴェンションでは、長2度の刺繍音(補助音)が短2度に直されていたりする。ツェルニーの時代には旋法的な音は忌避すべきものだったに違いない。

 山田耕筰が編曲した、滝廉太郎の「荒城の月」でも同じ操作が行なわれている。

 ジャズ理論では、アヴォイドという名前で忌避音が定義されている。

 CメジャーでC11thのコードを組み上げていくと、rootから順にC-E-G-B-D-Fとなるはずだが、実際にはそうならない。ここでのFはスケール内の音であるにもかかわらずアヴォイドなのでFisとなる。

 機能和声学の創始者であるラモーもFの扱いには手を焼いたらしく、属七のFを「下属音のこだま」と呼んでいる。

このFをFis置き換えると、Cメジャースケールがリディア旋法と一致し、それはまた、インド音楽の「サ・リ・ガ・マ・パ・ダ・ニ・サ」に似てくる(誤解を招く表現であるとの指あり。各音にシャーップやフラットに相当するものがあり、いろいろと姿を変えます。そのバリエーションは西洋音楽の長短調24種の比ではない。)。

 伝統的な音楽には決して破られることのない「忌避音に対する強固な感覚」があった。

 しかし、20世紀に不協和音の定義が一気に曖昧になった。実際には優れた作曲家たちにとって不協和音と忌避音の入った和音は全く別のものだった。

 もっとも徹底した例がフランク・マルタンだろう。彼は12音技法で書いても忌避音はひとつとして入っていない。だから音楽の響きが透明だ。メシアンも独特の感性で忌避音を避けている。

 何を忌避音とするかは人によって異なるが、大まかなところは一緒だ。

 黒板を爪でひっかく時に発せられる音は多くの人にとって忌避すべきものだろう。つまり、忌避音とは不快音とほぼ同義といってよい。

 無調音楽が未来の音楽としてもてはやされた時、時流に乗り遅れてはならないと、古典的な音楽語法のまま、忌避音たっぷりの勘違い不協和音を鳴らして聴衆を煙(けむ)に巻いている作曲家たちがいた。「黒板ひっかき型作曲家」の一群である。

 本来ならば、そういう作曲家たちは同人化して作曲者と聴衆が同じという閉じた世界でカタギの人たちには迷惑をかけることなく、自分たちの世界に浸れるはずだった。しかし、時代はそれを許さず、冠コンサートや公共の電波に乗って拡散していった。

 その結果、彼らは罪深いことに自分たちだけが嫌われるのではなく、現代音楽全般を毛嫌いする音楽ファンを大量生産した。才能豊かで、インスピレーションに溢れた音楽を書く作曲家たちも、その作品を発表する前から「嫌い」と批評されてしまった。

 その結果、一部の作曲家は調性へと回帰していった。無調が駄目なら調性というのはどういう発想なのだろうか。批評家もさかんに「調性への回帰」という言葉を使った。少し的外れな気がしてならなかった。

 なぜならライヒのような音楽家(敢えて作曲家とは言わない)がいたからだ。彼は非調とても言うべき世界に入っていった。広大な旋法世界(教会旋法も狭い世界だから、さらにその外側の旋法世界)に入っていった。そもそも無調でなければ調性というのは、発想が乏しすぎる。いや、ライヒは音とリズムの複合体としての音楽だから、調性がどうのこうのということさえ馴染まないかもしれない。

 またまたライヒの亜流が雨後の竹の子のように現れたが、それは有名税のようなものだろう。

 私自身、長いこと(きっと)現代音楽の作曲家だからという理由で、曲を聴いてもらう前から、人々の脳裏に忌避音たっぷりの許容しがたい音楽が自動生成され、ついに一音たりとも聴いてもらえなかったという時代を過ごしてきた。

 ネットの時代になって、ようやく一部の人々に聴いてもらえるようになった。ネットさまさまである。

 そもそも私は時流に乗ろうなどとは全く思わない。20世紀以後、音楽的な時流は才能が生み出すのではなく、乗り遅れては大変だという恐怖、焦り、強迫観念が生み出しているのだと思う。

 私は過去の大作曲家を除けば、他人の音楽に興味がない。時流に乗らない作曲家としては、ウルマス・シサスクがいる。彼は、いつの時代の音楽であるのかも分からない音楽を書いている。だから、おそらく古くなることはなく、しかも美しい。

 20世紀同人音楽界を徘徊する人たちは、すでに閉じた世界を形成していて、現代の音楽に与える影響力もとても小さなものになった。

 しかし、後遺症は大きい。その昔、ベートーヴェンの新曲が発表されるというニュースはヨーロッパ中が注目した。しかし、今、その役を担っているのはポップスの歌手たちだ。

 お。おおおおおお・・・。しまった。こんな時刻ではないか。実は今朝6時に目覚めてしまって2時間しか眠っていないので早く寝るはずだった。今日こそ早く寝る。続きは、またいつか。

 ちょっと言葉足らずだったけれど、今は多くの作曲家が周囲に惑わされることなく、自分の音楽を書く時代になりつつある。それに、私は前衛音楽そのものを批判したのではない。前衛音楽にすらならなかった「なんちゃって忌避音詰め合わせ音楽」を、作曲家の良心に反して書いた人たちと、それを無批判にもてはやした批評家を批判したのだ。

 しかし、今や彼らの影響力は電磁気力や核力に対する重力の影響くらい小さくなった。

 

今日新規アップロードしたのは次の3曲。

3β-6_いいことありそう

3β-7_オレンジ畑のエチュード2

3β-10_雨の庭

 

試聴音源を新録音と差し替えたのが次の2曲

3β-12_プレゼントを買いに

3β-19_森からの風

 

気持玉は3つ

1β_こきりこ <おどろいた>1

3β-6_いいことありそう <かわいい>1

3β-7_オレンジ畑のエチュード2 <ナイス>1

 

では、お休みなさい。

 

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風雲急を告げる直前の空