野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

6月5日(水)

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 これを書いているのは6月6日(木)午前。

 昨日は「Three Dances」の第2曲の仕上げに追われて、深夜には日記を書く気力もなかった。

 毎日、書きためているウラノメトリアの作曲と、いま受けてる仕事は性格が全く異なる。

 ウラノメトリアでは、自分自身の新しい可能性を探るという目標がある。これがどういうことなのかを、流れとして少し詳しく記すと次のようになる。

 私は、ウラノメトリアとは印刷された楽譜のことだけを指すのではなく、考え方、あるいはそのあり方をも含めた概念であると定義している。

 ドビュッシーバルトークの魅力に初めて気づいた時、私は音楽観が変化した。作曲することとは「音によって新しい音楽美学について語ること」であることを体感した瞬間だった。

 ベートーヴェンドビュッシーも、(原始人ではないのだから)他者の音楽から影響を受けていることは言うまでもないが、彼らの偉大さは、ライバルであり師であるのが昨日までの自分であることだろう。

 ウラノメトリアは、発表済みのものだけで300曲を超えている。それらが誰にでも区別のつく独立した音楽であるためには、私自身が常に新しく(より良く)進歩・変化していく必要がある。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタも交響曲も、全曲が独立した性格を持っている。それは、とりも直さず彼が進歩を続けた証と言えるだろう。ドビュッシーの前奏曲集もショパンの各曲も、みな独立した曲としての個性を持っている。

 だから、ウラノメトリアの新曲を書くということは、私自身の変化を書くということでなければならない。というわけで、ウラノメトリアを書くのは「曲をひねり出す」という行為の対極にある。決して、曲を「ひねり出す」ようなことがあってはならない。

 少し横道にそれるけれど、作曲のレッスンで質問の多い問題に「過去のすべての曲を知らないのに、誰かの曲に似た曲を書いてしまうことはないのか」というものがある。

 簡単に書くと、答えは「習作期を終えたドビュッシーに盗作の心配があるだろうか」というものだ。

 ゴッホ歌川広重の浮世絵を模写しているが、誰が見てもゴッホとしか思えない。

 作曲家や画家などのようなクリエイターになるということは、盗作の心配がなくなる状態に到達することだ。

 さて、これが作曲。

 ディスプレイ上の五線紙に向かう時間も、それほど長くない。なぜなら作曲することは自分自身を成長させることのほうが大きな比重を占めているからだ。

 そして、いま受けている仕事は自分自身の作品の改訂である。

 すでに、私の13年前当時の個性によって音楽的には出来上がっている曲の声部をひとつ増やすというものだ。

 完成した絵に、オブジェをもう一つ付け足すとしたら、テーマを変えることなく、おそらくすべての構図を変えて新たな絵画として生まれ変わらせることになるだろう。

 原曲は8声部なので、それを9声部でなければ表現できないものにすることがミッション。

 2声のフーガを3声のフーガに書き換えるのと似ている。

 そして、作曲の常として、いつも3つのことを念頭に置く。

 1.曲の魅力(作曲者の魅力)を表現すること。

 2.楽器の魅力(ここではフルート、およびフルート・アンサンブルの魅力)を表現すること。

 3.演奏者の魅力(演奏者が存分に、その持てる力を発揮して、それが聴衆に伝わる書法)を表現すること。

 特に3番目の演奏者の魅力では、アンサンブルの場合には全員が等しく喝采を受けられるようでなければならない。

 この作業は、そのほとんどをPCディスプレイ上で行う。これがドライ・アイの私には厳しい。眼科で処方してもらった目薬をさしながら、うっかりすると休憩なしで4〜5時間も作業を続けて、眼を赤くしてしまったりする(いかんいかん)。

 今日から残りの第3曲にとりかかる。

 結果は11月15日に。

 

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夕方、近所の道路舗装にクラックを発見。土木マニア(特に舗装フリーク)としては見逃せない。これは車両の通行による痛みではなく、路床内に異変があるのだと思う。

 

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紫陽花定点観察

 

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風に揺れてシャッターチャンスがなかなかやってこなかった。

 

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日没のころ