野村茎一作曲工房日記2

作曲家の野村茎一が日々の出来事を綴ります

8月21日(火)

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 日記を書こうとPC前に座って、なぜか思い立ってNHK-FMを聴くと、いきなりピンクフロイドの「ECHOS」の、それも聴いたことのない演奏が流れだしてきた。

 もちろん、演奏が終わるまでは日記どころではない。再放送はないのだろうかと探したがなさそうだった。

 昨夜は夜明け直前に眠りについたのに、モリアキ翁が早起きだったので6時過ぎに目覚めてしまった(モリアキ翁も午前4時には布団の中で読書していたのに)。

 こんなことは2年以上前から毎日のスケジュールに織り込み済みで、もう動じたりしないのだが、暑さが加わるとぼーっとしてしまって、今日は買い物にも水汲みにも行けなかった。それくらいだから楽譜を書けるはずもなく、考えなくても身体が動く家事だけをやって、あとは読書・放送大学の録画視聴・瞑想で過ごした。

 今夜こそ早く寝ようと思っていると、日付が変わる頃から俄然元気になってくるから困ったものだ。

 そうだ、今日は城山三郎の次女である井上紀子著「父でもなく、城山三郎でもなく」が届いたのだった。アマゾン・マーケットプレイスで2円。1円ではなく2円である理由はなんだろうか。まだ最初のところしか読んでいないが、文章がうまい。

 文章がうまいと言えば、先日も書いた「天地明察」の冲方丁(うぶかた・とう)は本当にうまい。現在下巻を読み進んでいるけれど、物語の進め方のうまさと相まって、この書物を名作にしている。

 偶然にしては偶然すぎるくらいなのだが、放送大学の「宇宙観の歴史と科学」では天体観測による測地と三角測量による測地の問題を扱った。アリスタルコスによる月と太陽の距離関係について、あるいはサロス周期についての講義もあった。また、特別講義「江戸に咲いた和算の夢」は関孝和についての内容だった。さらに、今年になってから読んだ「経度への挑戦」(デーヴァ・ソベル/藤井留美訳)は、まさに時計職人を通して測地学の進展の過程を描いたものだった。さらに「なぜ、この方程式は解けないか?」というエキサイティングな数学史を読んだのも今年だ。おまけに私が尊敬する人物はレオナルド、バッハ、伊能忠敬だ。伊能忠敬は50歳を過ぎてから江戸幕府の天文方であった若き高橋至時(たかはし・よしとき)に測地に必要な天文学を学んでいる。

 これだけの予備知識があると、天地明察を書くにあたって著者がどれだけ資料をあたって詳しく研究したのかが見えてくる。ひょっとしたら数学史の専門家である可能性も否定できないが、おそらく文学の専門家だろう。

 これからどのような著作が出るのか楽しみな作家のひとりだ。

 

 今日のような寝不足の日には、静かに目を閉じてバルトーク弦楽四重奏曲全6曲を通して聴くと気持ちが良い。

 昼頃、そうしていたらメールが着信し、開いてみるとバルトークのレッスン依頼だった。こういうのをシンクロニシティと言うのだろうか(バルトークを聴いている時間は比較的多いので、偶然とは言えないかも)。

 バルトークのレッスンは燃えるなあ。もう準備期間は一週間を切っている。

「クライアントの想像力を超えたところで仕事をしなさい」とは土肥先生の言葉だ。